僕がこの本に興味を憶えたのは、何かの本で天皇の墓でも普通のお寺の墓地にあるような墓もある、なんて話を読んだからだ。
だけど、この本にはそんな話は一切ない。
天皇陵、即ち三世紀から八世紀頃の天皇の古墳の話の本である。
著者は、読売新聞で23年間にわたって考古学や古代史を担当していた新聞記者である。
僕のような一般人からすると考古学担当の新聞記者なんて日頃はどんな仕事をしているんだろうと思ってしまう程、縁遠い存在だ。だって、新聞にいつも考古学とかの記事が載っている訳ではないから暇でしようがないんじゃないかと想像してしまうくらいだ。
さて、本書を開くとすぐに衝撃的な見出しが目に飛び込んで来る。
宮内庁が指定している天皇陵のうち、”被葬者が正しい天皇陵は四十分の五”、らしい。
ホントかよ、と言いたくなるけれどどうも本当らしい。そして、この本は、この後、これらの疑わしい天皇陵の代表的な例を挙げていろいろと検証を進めて行く。
なかなか興味深いお話が続いていくが、天皇陵と言っても誰が埋葬されているか怪しいという事は、逆に天皇陵なのにただの古墳だとされているものもあるらしい。
そして、これらの古墳と被葬者の関係の多くが江戸時代の研究者の書籍を基本に明治時代に決められ、それを踏襲しているという事実、そして、宮内庁は現代の研究成果を一切反映しようとはしないと言う事実には驚いてしまう事はなく(笑)、今の役所ならそうだろうなぁと思ってしまう事に情けなくなってしまう。
また、明治、大正、昭和の天皇陵の形式も昔の研究者の間違いをそのまま踏襲して作られていて、天皇陵として過去に例がないらしい。
即ち、現在の天皇陵は基底部が方形で上部が円の上円下方墳でできているが、明治天皇陵を築くときにモデルとした天智天皇陵の上部を円と誤認して、それを踏襲したらしい。本当は、上部は八角形でできている事が近年判明したのだが、間違いを分かっていながら昭和天皇陵もそのまま築かれているらしい。
そして、平成天皇陵も上円下方墳で何食わぬ顔と言う訳なんだよね、たぶん。
おいおい、それって日本らしすぎる。
最近、顕在化した大企業の検査不正とかとおんなじ構図じゃない?
「忙しいから、しようがないよ」
「納期に間に合わないから、しようがないよ」
結局、
「今迄何年もやってきたのに今更問題にしてなんの得があるの?」
「今迄不都合が出ていないんだから、大丈夫」
「今更、間違っていましたなんて言えないでしょ」
最近、僕は日本人と言うのはもともと根本理念などを大事にしてきた歴史など持ち合わせたことのない民族なのかもしれないと思うようになってきた。
というか、気位の高さや見栄が邪魔をして物事を客観視できないのではないかと思う。
この著者も、”終章 日本の誇りのために” の中で宮内庁の頑迷な事なかれ主義を批判しながら天皇陵の公開の事を ”失われてしまった民族の矜持を取り戻す拠り所にするためにこそ”
などと述べている。
そもそも、民族の矜持なんぞと言うものを我々は建国以来持ち合わせた事があったのか、そして、著者が言うそれも、何百年も国家中枢から遠ざけられていて、明治になって明治新政府の都合によって祭り上げられた天皇家の墓にその矜持を取り戻す為の拠り所を求めるなんて、ちょっとおかしくないかな。
そして、唐突に ”この国に憲政史上最悪、最劣の民主党政権を生み出してしまったのは、誰の責任だろうか。歴史観、国家観、文化観の欠落した政治家が国の命運を握り、自国の歴史、文化、伝統、さらに明治以降の戦死者の霊に一片の尊崇の思いも持ち得ない国民が、いたる所に溢れる平成ニッポン。”
と述べている。
僕に言わせると、靖国参拝、靖国参拝と叫んでいる国会議員のほうが歴史観、国家観、文化観の欠落した政治家だし、小学生が駐留外国兵に強姦されても何もしない政治家も、世界中の日本以外では紛争地でない所に基地を持たないアメリカ海兵隊に居てくれ居てくれと言っている政治家も、農水省が食料自給率が40数%から10数%に落ち込むと言っているのにアメリカがTPPやると言ったらホイホイと後に続く政治家も ”民族の矜持”なんぞ持ち合わせていないように見えるし、そもそも、ここで唐突に民主党を持ち出して批判している著者が批判している現在のニッポンは、戦後ほとんど自民党が政権を担って来たんじゃなかったの? ちょっと都合が良すぎやしませんかねぇ。
著者は、”明治以降の戦死者の霊に一片の尊崇の思いも持ち得ない国民が” と言っているけれど、結局その尊崇を靖国神社と結びつけてしか認めてこなかった自民党の責任が大きいのではないのか。ひとりの宮司が勝手に戦犯者を合祀してそれを黙認または歓迎してきた自民党、昭和天皇がそれ以来参拝されなくなった事実、平成天皇もそれに倣っている事実、中国や韓国もそれ以前は政治家の靖国神社参拝を問題視していなかった事実を客観的に著者は見ているのだろうか。
今年94歳になる私の父はインパールで兄を亡くしている。代議士の後援会の幹部で自宅が選挙事務所になった事もある50年以上前からのバリバリの自民党員だった。その父が小泉政権のときに夫婦で自民党を辞めた。
自分たちが戦後築いてきたものを壊そうとしているとでも思ったのか? 「こんな事、したらいけん」 「日本がダメになるぞ」 「格差がいいわけないやろ」 「それで、暮らしていけるか」
いすゞ自動車の派遣切りのときには怒っていた。「こんな事しちゃいかん、3億くらい役員と社員の給料少しずつ減らせば足りる」
「ウチの会社で取引先の救済の為にやった事あるよ」「ホントに?」
「ああ、本当だ」
詳しい話は聞いていないが、格差社会、ブラック企業、忖度等々、父の危惧したとおりになってきたのかなと思う。
組合争議に共産党も加わって、その対応に苦労したらしい父が、「共産党はまともな事言うよ、でも、それが出来るかどうかなぁ」と笑っていたのを思い出す。
さてさて、首相以下の軽薄な国会議員、日本会議、ネトウヨ、こういう人達やこの著者に共通するのは、いにしえの古墳時代からジャンプして明治、大正、昭和に歴史が飛んで来ること。
だから、部分部分を自分達の都合のいいところだけかいつまんで論じているように見える。何故、古墳時代から一足飛びに現代の日本の社会批判に飛躍できるのだろう。
著者は言う、(陵墓公開は)”自らの歴史と文化に自信と誇りを持つ場とすることに主眼がおかれなくてはならない。失われてしまった民族の矜持を取り戻す拠り所にするためにこそ”
いやぁ、上から目線ですな。ホント、松陰神社や乃木神社を作った時の趣意書に書かれていた言葉じゃないかと疑いたくなる。
どうも、安倍さん達が言っている「美しい日本」と言うのと、この著者の言っている事が同じように思えてならない。結局、そこには形式的な観念的な日の丸や靖国しかなく、市井の血の通った人々の過去も未来も含まれていないような気がしてならない。
読売新聞って言うのは、保守系だと聞いているけど最後の章でこのように書かれると読売の人ってみんなこうなの? と思ってしまう。フジテレビの討論番組の編集委員とやらが、番組の最後に今迄の討論を無視して持論を述べる、あれを思い出した。
この著者は自分でも相当真っ当な事を書いていると思っているだろうけど僕から見ると心の底に日本社会の現状に対して相当な感情的思い入れを持っているように窺えるし、こんな研究書のような本でそんな事を読者に感じさせたら自分は気持ちいいんだろうけど読んでいる方は興ざめだ。
とにかく、いろいろと述べていることの中には理解できる事も少しはあるけれど、理由も書かずに唐突に民主党を批判している一行ですべてが台無しだし、心根が透けて見える気がする。
せっかく市井の研究者の書いたまじめな研究書だと思っていた本が保守系プロパガンダ本に見えて来た。
言っておくが、僕は民主党支持者ではない。
まあ、23年も担当やっていたなら客観的事実は確かなんだろうけど、はっきり言って最終章はいらなかった。