僕自身、ユニフォームを着て野球をやった経験は、小学校の野球部での2年間だけだった。今から約50年前のその頃は、今のように少年野球のクラブチームがある筈もなく、しかし、戦前から続く日本人の野球好きの伝統からか小学校に野球部があった。
5年生と6年生の学年でも上手な子が集まるのだけれど、5年生の最初の時期に子供達の中で自分が他より下手だと自覚した子が抜けて行き、最初の2~3日で9人になる。それは、毎年の事のようで6年生も9人だった。
ユニフォームは学校備え付けのがあり、12着だけ。自分のバットなど持っている子は、居る筈もなくそれも学校のを使っていた。
だから、家で素振りをして来いなんて言われた事もない。
当時は、教師が生徒を叩くなんて日常茶飯事だったが、野球部で叩かれた記憶はない。しかし、怒声がいつも飛び交っていた。
僕は、5年生の中ではユニフォームを着たのも途中出場したのも最初だったので、少しは出来たほうだと思うが、とにかく、ユニフォームを着てやる野球は、楽しくなかった。
息子が野球を始めたのが小学校3年生のとき、かれこれ15年前になる。
最初、父親は球拾いに行かないといけないと思って毎週顔を出していたらユニフォームを渡された。コーチになってくれと言う事だった。
そんな訳で、40年ぶりにユニフォームに袖を通したときは、何となく気恥ずかしさと嬉しさが入り混じった気持ちになった。
ただ、この気恥ずかしさも嬉しさも、野球のユニフォームを着ただけでなく、息子と一緒だと言うのが大きかった。
この少年野球チームで最初に担当したのは、小学校3年生以下のチームだった。3年生以下のコーチなんてたいした事ないだろうと思っていたら、これが大間違い。
教えるなんておこがましい、子供達にいろんな事を教えてもらった。
最初の一ケ月は、張り切っていろんな事を教えようとした。ところがまったく通用しない。ここで、すぐに気が付いた。
僕に、教えるスキルがないんだと。
こちらもいろいろと考えたり悩んだりしたが、結局行きついたのが教えないと言う事。
担当の監督とコーチ達とも話し合って、あまり教えない事にしようとなった。何故って? みんな教えるスキルがないから(笑)
中には、大学野球の経験者までいたが、子供に野球を教えた経験なんかないからわからないと言う。後から気が付いた事だが、同じ野球経験者でもバンバン教えているというか、小学生に高校野球を教えているコーチもたくさんいる。
我がチームのコーチ達は、なんと謙虚な事かと思った。
それでも、まったく教えない訳にもいかないし、チーム作りもしないといけないので、考えたり悩んだりしながら試行錯誤の連続だった。
ただ、僕自身は最低限これだけはという事がひとつだけあった。それは、僕のようにユニフォームを着た野球が楽しくないと思って欲しくないと言う事だった。
前置きが長くなったが、そんな訳でそれからは野球の技術論や実際のチーム作りのノウハウなどに興味を持つようになった。
この野村監督の本も興味津々で最初のページを開いた。
最初の導入部、野球の全体的な考え方、それから、投手、捕手、打者、走塁と作戦、守備と各章に分かれて話が進んで行く。
多くは僕自身が思っている事とほとんど同じ。常識的とも言える事が書かれている。
個別の実際的な事柄については、なるほどなと思わせることもあるが、何より、自分が漠然と思っていた曖昧な事をはっきりと目の前に示してくれるところがいい。ただ、しっかりと自分でイメージしながら読まないと読み流してしまい何も残らない可能性もある。
しかし、世の中には、ここに書かれている常識的とも言える事を全然考えていない人達のなんと多い事か。逆に言えば、これほど野球に対して造詣の深い人だからこそ、これが書けたのかもしれない。
そして、これをちゃんとノートにまとめているという事が、僕みたいな凡人とは違って凄いところだ。
と褒めちぎっているような事を書いてきたが、所詮400ページの本、何かを考えるきっかけや迷ったときの参考程度に思ったほうがいい。野球でも他のスポーツでもそうだと思うが、そんなに簡単に答えが得られる筈はないのは当然だ。
そんな事はないとは思うが、もし、今後、僕が野球チームの指導者になる事があれば、ぜひ、手元に置いて事あるごとに開きたいと思う本ではある。
最後に同じ父親として共感した一節を紹介して終わる。
なぜ、私は「ノムラの考え」と題した野球ノートを書き残す事にしたのか。息子の克則に、ひとつくらいは父親らしいことをしてやりたいと思ったことがきっかけだった。
「父には一度も遊園地に連れていってもらったことがない」。克則が小学校でこう話したと聞いた。「野村引く野球、イコールゼロ」などと公言していた私だが、克則のこの言葉はさすがにショックだった。せめて将来、息子が困らないように野球ノートを作っておこう、と思い立った。