グレート・ギャッツビー フランシス・スコット・フィッツジェラルド著

Pocket

新型コロナ騒動のおかげで自宅待機はいいのだけれど、何もする事がない。本屋も図書館も閉まっているし、買い物に行くにしても食料品関連の店しか開いていない。
そうだ、何かあるかもと思って息子の本棚を漁ってみたらこの本が目についた。しかし、表紙にはデカプリオの顔がある。変だな。
確か、僕がこの本や映画と出会ったのは、40年以上前の学生の頃じゃなかったか。題名も”華麗なるギャッツビー”だったよなぁ。

そう言えば、ずいぶん前に息子がこの映画を見に行ったとか言っていた。そうか、デカプリオ主演でリメイクされたのか? すっかり、忘れていた。
まあいいか、何か表紙がデカプリオだとちょっと新鮮な気がしてあらためて読んでみる気になった。

まあ、懐かしい。もちろん、本の中の情景ではない、僕はまだ生まれていないのだから。
懐かしいのは、訳文の文体や登場人物の会話。
どうして、登場する上流階級の女性が、こんながらっぱちな言葉をしゃべるのだろうと当時から不思議に思っていたのだが、1970年代頃の訳書には良くみられた。

この本は、東大文学部出の野崎さんという人の訳だけれどこういう人達は、そもそも女性が上流、中流、下流にかかわらずどんな言葉をしゃべっているのかとか知らないのだろうか?
それとも、夜ごとパーティー三昧の不埒なヤツは皆、言葉遣いもチンピラ風なんだとでも思い込んでいるのだろうか。

そんな事はともかく、この本を読んでみて今更内容をあれこれ述べても仕方がないと思うのだが、還暦過ぎた僕が自分を振り返って感じた事も含めて少し書いてみようと思う。

さて、この本はニックと言う中西部の田舎から出て来た青年を通して、1920年代のニューヨークの華やかな社会を背景に、謎の男ギャッツビーのひとりの女性に対する想いを軸として人間の生れながらの業のようなものをしっかり描いている。
そして、登場人物ひとりひとりにキャラクターをしっかり持たせて話全体の居場所もちゃんと設定されて、無駄な人も足らない人もいない、話の構成もしっかりしてコンパクトにまとめられている。
さすが名著と言われるだけのことはあるなと思う。

僕は、このニックと言う青年が都会の華やかな世界の人々に馴染もうとしながらもその人々ひとりひとりを少し離れて醒めた目で観察している姿に昔の自分を見る思いがした。
本の中では、中西部のモラルとかニックの潔癖症とかで表現されていたけれど、僕もまた田舎から出て来た東京で、赤坂や六本木や青山という夜の繁華街とそこにうごめく人々の中で、どうしてもその世界に首までどっぷり浸かる事ができないでいた自分を思い出してしまった。
いずれにせよ、読後感としては古き良き時代の古き良き小説を読ませて頂いたと言う感じ、陳腐な感想だけど。

 

 

Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。