武器としての「資本論」 白井聡著

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この本を読み始めてすぐに目にとまったのが、読者に対するこの問いかけ、”資本主義はいつ始まった?”
ほう、この人はなんと答えるのだろうかと興味が湧いて来た。そして、この著者が答えたのは。
”しかしながら、「資本主義」という言葉から浮かぶイメージは、やはり産業革命以降の工業社会です。”ときた。
がっくり、自分から資本主義と言っておきながらいつのまにか資本主義と資本主義社会を混同している。

日本のこういう社会科学系の本によくみられる言葉の定義の曖昧さが、わかりにくさを助長しているのではないかと常々思ってきたけど、この本もそうかもと疑いながら読み始めた。

ただし、著者は冒頭で資本主義と資本主義社会を同義で使うと述べているし、資本論の世界だけではなく今どきの通常の会話の中では、資本主義と言えば産業革命以降の資本主義体制を指すことが多いと言う事は、僕も重々承知している。しかし、こういう本の中で著者自身からの問いかけをするにはちょっと脇が甘いかなと思う。

日本の学校の試験とか公的な資格試験とかでもよくあるけれど、問われる側が問題の語句の意味を推し量って問題に沿った解釈をしないといけない、そんな事を思い出してしまう。

そんな訳でちょっと斜に構えて読み始めたが、全体的には期待度のほうがおおきかった。
まず、題名がかっこいい、”武器としての「資本論」”。「」も資本論を強調していいし、武器としてとはなんぞやと好奇心も湧いて来る。おまけに赤一色の表紙。なかなかやるな東洋経済、と言う感じ。

さてさて、その中身だが、はじめのうちは資本論をやさしく解説していきながら現代日本の状況とも絡み合わせるような展開で後々の本題への布石かなと感じさせる。この現代日本の状況を資本論で説明するようなスタイルは最後まで続くのだが、これがなかなか興味深い。

イギリスの囲い込みが産業革命期の労働者供給に寄与した事と同様に日本でも明治期の地租改正が労働者供給に寄与した事をあげ、現代日本でも地方と大都市との格差が労働者供給に寄与している事を指摘するなど、基本的に過去の資本主義社会の歴史がまた繰り返されていると言う立場で書かれている。

また、新自由主義を資本家からの階級闘争としてとらえ、それを可能にしてきたのは労働者側の怠慢であり連合などの労働組合の堕落であると指摘している。
そして、新自由主義が人間の魂や感性、センスを変えてしまい、そのことのほうが社会的変化よりも重要な事だったのではないかと言う。

ああ、まさにその通り、僕も常々感じて来たことではあるけれどこうして文章としてまとめてくれたことで、僕自身の中であらためて考えが再構築できたと感じる。特に資本論を軸に話が展開されることで、話の筋がはっきりしていてわかりやすい。

そして、その新自由主義にどう対抗していこうかと言う問題についての著者の回答は、我々は美味いものを食う権利があると叫べと。
毎日コンビニ弁当では、人間じゃないと。
スキルなんかなくても付加価値なんかなくても人間が最低限生活していくレベルはこれこれこうだと、新自由主義に洗脳された意識を捨て去り、ベーシックな感性の部分からもう一度始めなければならないと著者は言う。

まったく同感、同感。
後半部分からだんだんとボルテージが上がってきて、気持ちいいほどのストレートな言葉が続く。
だがしかし僕が思うに、見栄っ張りで気位が高く、権威にすがり、体制に迎合する、そして、自分より低い者を探して安心するような自立できない日本人の多くが、そんな事ができるのか?

美味いもの食わせろと言った瞬間に自分が体制側じゃない、会社側じゃないと認めたようなもの、そんなに日本人は開き直ることができるのか?
毎日コンビニ弁当食ってでも、自分は体制側にいると言う安心感を選ぶんじゃないだろうか?
僕は、悲観的すぎるのだろうか?

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